新渡戸稲造 教育の最大目的 【朗読 AI IA】

本屋の学術文庫でも見た事がない貴重な内容です。

 

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ウィキペディアWikipedia)より引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%... 新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。 国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。 ■障害 陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父傳は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り、幕末に早世した次男十次郎に代わって新渡戸家の家計を大いに助けた。 稲之助は、巡幸中に新渡戸家で休息していた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことから、農学を志すようになったという。 ■学の道へ 農学校卒業後は、国策により級友達とともに上級官吏として北海道庁に採用され、畑の作物を食い散らすイナゴの異常発生の対策の研究等をしていた。 その後、創立後間もない帝国大学(後の東京帝国大学東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、帝国大学の研究レベルの低さに失望したため退学した。1884年明治17年)、「太平洋の架け橋になりたい」と米国に私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め、正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。米国の某地で日本についての講演をした際に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしたという。 その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して、官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。そのいきさつとして、米国留学にて農業を経済学と結び付けて考える必要を感じた稲造は、独学で社会科学を学び新たな学問を創設しようと試みたのであるが、ドイツ留学にて農政学が既にゴルツ(ドイツ語版)やブッヘンベルガー(ドイツ語版)により創始されていたことを知った。この間、『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職して米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養した。 この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている[2]。 台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした[3]。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に『糖業改良意見書』を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した[4][5]。台湾糖業博物館(高雄市)には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像が置かれている[6]。 その後、1903年明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。同年、牧野伸顕文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。それまでの東洋的文化色が強かった同校に、西洋色を取り入れようと努めた。愛読書でもあるトーマス・カーライルの『衣服哲学』の読書を学生に薦めるなどした。その新たな学風づくりの試みは、河合栄治郎などに影響を与えた。1911-1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子の津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。 国際連盟事務次長 1920年大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた[7]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。 エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対に遭い、結局実現しなかった。同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。 人物 新渡戸稲造と妻メアリー キリスト教徒(クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄高木八尺南原繁、宇佐美毅、前田多門、藤井武、塚本虎二、河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。 非常に交流の幅が広い人物で、著作の一つ『偉人群像』には、伊藤博文桂太郎乃木希典らなどとのエピソードも書かれている。 エリザ・シドモアら、日本研究で訪日した外国人とも深い交流がある。 栄典 位階 1891年(明治24年)12月21日 - 従七位[10] 1896年(明治29年)9月10日 - 従六位[11] 1898年(明治31年)9月30日 - 正六位[12] 1906年明治39年)11月20日 - 正五位[13] 1911年(明治44年)12月20日 - 従四位[14] 1927年(昭和2年)2月5日 - 正三位[15] 勲章等 1903年明治36年)12月26日 - 勲六等瑞宝章[16] 1908年(明治41年)12月25日 - 勲四等瑞宝章[17] 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[18] 1933年(昭和8年)10月16日 - 勲一等瑞宝章[19] 代表的な著書 『農業本論』裳華房、1898年(明治31年)9月。 Inazo Nitobe (1900). Bushido: the soul of Japan, an exposition of Japanese thought. Philadelphia: The Leeds and Biddle Company Bushido: the soul of Japan (Revised and enlarged 13th Eiton, 1908) - プロジェクト・グーテンベルク 『武士道』櫻井鴎村訳、丁未出版社、1908年(明治41年)3月。 『武士道』矢内原忠雄訳、岩波書店岩波文庫 青118-1〉、2007年(平成19年)4月(原著1938年(昭和13年)10月)、第91刷改版。ISBN 4-00-331181-7。ハルキ文庫、2014年10月 『武士道』矢内原忠雄訳、岩波書店〈ワイド版岩波文庫 35〉、1991年(平成3年)6月。ISBN 4-00-007035-5。 『武士道 現代語で読む最高の名著』奈良本辰也訳・解説、三笠書房〈知的生きかた文庫〉、1993年(平成5年)2月。ISBN 4-8379-0563-3。新装単行判、2013年9月 『いま、拠って立つべき日本の精神 武士道』岬龍一郎訳、PHP研究所、2005年8月17日、第1版第1刷。ISBN 4-569-66427-X。 『武士道 現代語訳』、山本博文訳・解説、筑摩書房ちくま新書〉、2010年(平成22年)8月 『新訳武士道 ビギナーズ日本の思想』、大久保喬樹訳、角川ソフィア文庫、2015年(平成27年)5月 『随想録』丁未出版社、1907年(明治40年)8月。 『随想録』たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉、2002年(平成14年)11月。ISBN 4-8133-1443-0。 『修養』実業之日本社、1911年(明治44年)9月。 『修養』たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉、2002年(平成14年)7月。ISBN 4-8133-1444-9。 『修養』角川ソフィア文庫、2017年(平成29年)6月 『人生雑感』國井通太郎 編、警醒社書店、1915年(大正4年)2月。 『人生雑感』国井通太郎 編、講談社講談社学術文庫 611〉、1983年(昭和58年)8月。ISBN 4-06-158611-4。 『ABCびき日本辞典』井上哲次郎、服部宇之吉などとの共編、三省堂、1917年(大正6年)。 『東西相触れて』実業之日本社、1928年(昭和3年)10月。 『東西相触れて』たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉、2002年(平成14年)4月。ISBN 4-8133-1442-2。 ※以下以外にも、様々な出版社から新版再刊されている。 『自警録 心のもちかた』講談社学術文庫、1982年(昭和57年) 『西洋の事情と思想』講談社学術文庫1984年(昭和59年) 『世渡りの道』文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2015年(平成27年